blackrme’s blog

暇があれば見てください。興味がなければ見ないでください。

社畜わーい 今の状況とか

おひさしぶりです。

 

この度ニートから社畜(社会人)に転身したということで、久々に書いていこうと思いました。

就職にあたり、今まで住んでいた所(神奈川県)から実家に戻ります。嬉しいような寂しいような。今住んでいる所が大和市という所なんだけど、めっちゃ住みやすかった。歩いて3分の所に、イオンとイトーヨーカドー、市役所があるんだよね。生活環境良すぎたから、いざ実家に帰ると環境が悪い!って言いそうで怖い。でもごみ捨ては楽になりそう。大和市って多分日本一ごみ捨てに厳しい所だよ。ゴミの種類がめっちゃ分けられてて、ゴミ箱が10個くらいあったわ。それに比べたら実家はなにも考えずに捨てられそうだから楽だ~。

 

生活圏のことはさておき、仕事ですよ。薬学部に進学したのに教育業界に就職なんて。親不孝だなぁと思いつつも認めてくれた親には感謝しています。

 

大学に教職過程があって受けてたら、薬学より教育に関心を持つようになったのがきっかけで、いずれか教員に一度はなりたいと思うようになった。就職先選択肢沢山あって悩んでいたけど、そんなに教育に興味があるなら最初から教育関係の仕事すればいいじゃんってなって。そう決心してから就職まではすぐだった。

 

教育について学んではいたけど、仕事としては未経験だから早く適応できるように頑張らないと。頑張れ私!

 

しっかしまた千葉に戻るとなると、大学の人たちと疎遠になるのか…神奈川に行った時も千葉の人たちと疎遠になったから複雑だな。まあ、大学でできた友達なんて一桁だけどね。中高の友達の方が多いくらいです。(中高でお世話になった人たち、今でも友達でいてくれてありがとう!)千葉と神奈川はわりと近いから会えないこともないけど。新しくできた友達も大事にしないとね。社会人になって必然的に休みが少なくなるから、関わり続けられるかはわからないけど。絶対関わり減るだろうなぁ…関係性を保つために積極的な行動するのが苦手だから怖い。

 

社会人になるのは嬉しいけど、出会いが限定されるのは悲しい。今までは周りに人がいたから友達ができるけど、残念ながら私の仕事上友達はできなさそう。なるとしても仕事上の関係になりそう。このままなあなあと一人で生きて死ぬんだろうなぁと考えると怖くなる。私がとても恋に貪欲だったら話が変わってくるけど、残念ながら情欲的な愛は今のところ持ち合わせてない。悲しいもんだよ。

 

私の持つ恋愛観の話になるけど、高校の倫理の授業で習った「古代ギリシャの4つの愛」に例えると、フィリアの持つ友愛に近いんだよね。世間一般的な恋愛観って、本能的、肉体的、情欲的な愛だけど、私の場合、その枠組みから外れている。脱恋愛とでも表現した方がいいのかな。私の恋愛のかたちは、同胞愛、同族愛のような、同じ立場の人間が同じ考えを持っている人で結束し、互いが愛すること。だから私はもう、世間一般的な恋愛というのはできそうにないし、いかに周りとその関係でいられるかを考えそうな気がする。

 

でも最近、俗に言う生涯のパートナーが欲しくなったのよね。いろいろな理由はあるけど、一つは経済的な理由かな。ほら、最近税金がヤバイじゃないですか…w精神的に一人で生き抜くことはできても、経済的な面から考えると自信を無くすよね。もちろん、仕事はちゃんとやるよ。でも怖いよ。

 

他の理由は、好奇心とか、一人でできない娯楽の存在とか、誰かといる楽しさとかいろいろあるよ。

 

そして、今の自分が望むパートナーとの関係性は、友愛関係だから、性別関係ないのよ。性欲が関わらないからね。そんな関係を望む同じような人がいればいいけど。多分いないな。

 

まぁ、将来どうなるかはわからないけど。急に私が性欲溢れるモンスターになったり、恋愛感情をもつ可能性だってあるかもしれない。いつ変わるかなんてわからないし。

 

こんなこと考えるよりまずは仕事頑張らないとね!仕事が落ち着いたら恋愛は考えようかな。落ち着け、まだあわわわわわてるような時間じゃない。手当たり次第やるわけでもないからゆっくり考えよう。うん。

 

急に気持ち悪い話になっちゃった。自分の価値観の言語化って、行っている本人は気持ちいいけど、他人からみると気持ち悪いよね。

 

でも自分のことを言語化できるようになってから、本当に生きやすくなったんだよ。今までの私って、嘘まみれで腐ってて、どうしようもない屑だった。自己理解が進むにつれて、自分も他人も知らない自分に気づけた。そこからはもう、フルオープンよ。人と繋がる事が楽しくなったし、自分の中にあった壁みたいなものがなくなった。(積極的にはまた関われないけど)嘘なんて言わなくなったし、ありのままの自分が出せて、生きてて楽しいと思えるようになった。

 

変わったきっかけは大学の必修科目だった心理学だった。これめっちゃ面白いやーんてなって。特にアドラー心理学は自分が変わるきっかけになったから自分について悩んでいる人がいれば是非読んで欲しい。面白いよ。

 

なんか今の状況話すつもりだけだったけど、余計な事も書いちゃった。また気が向いたら色々書こうかな。自分の事もっと言葉にしたいし、日本酒、料理とか色々語ってみたいな。時間さえあればの話だけど。頭ハッピーセットな私ですが、気楽に今後も頑張って行きます。

 

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人と関わることは難しい。

2021年4月09日 開始

2021年4月15日 終了

 

恋愛は難しい。交友関係を築くことも難しい。

私は恋愛することも、深い交友関係を築くことも苦手だ。

 

私は生徒の時に好きだった人が何人かいた。だけど私がその人に好きだと直接伝えることはなかった。

私の好きってなんだろう。というのを大学生になってから思っていた。

そして私は友達だと判断できる人も少ない。遊びに誘われる事も殆どない。自ら進んで会話ができない。故に交友関係を築けない。陰キャ

大学生活は最初の方は結構暇だったから、暇さえあればいつも自分に自分のことを問いかけていた。

 

これから話すのは私が自己分析して得られた私の他人に対する価値観だ。

 

最初にも言ったが、私には好きな人が何人かいた。名前は個人情報なので言えないが、正直にいうと男女数名。全て同級生だ。

あなたバイセクシャルですね!とか2人以上いたの!?きも!と言われても否定も反論もはできない。だって好きだったから。

 

どの方々も気になり始めたのは中学生の時からだった。私は四年以上その方々が好きだった。今は普通。

しかし私はその事を本人にもその周りの人にも一切伝えなかったし、本人に悟られるような事もしなかった。

それは今の日本社会の人間に関する価値観が私の価値観に直接影響している訳ではない。もし私が好きな人が関わっていく中で複数人ではなく一人が好きだったとしても好きだと伝えることは絶対になかった。

私は他に好きなことをを伝えない理由があった。

 

それは根本的に私が好きだったものが違っていたから。

私はその方々自体が好きではなく、その方々が成長する過程が好きだった。

正確に言うと人間が他人と関わる、環境が変化することで変わっていく姿を観察する事が好きだった。

私は傍観していた。その方々が他人と関わる姿を。人間関係の変化を。成長することで変わっていく顔の表情の豊かさを。話し方を。価値観の変化を。その方々が成長して得られた全てがとてもとてもとても愛おしかった。

会話することによって得られる信頼、友人関係、異性との関係。それらは成長と共に変わっていく。そしてその背景にあるその人自身の価値観を分析することでその人を理解できる。

 

それが私が好きだったものだ。

今まで好きだったものは人間に対する直接的な愛ではなく、人間の成長であり、価値観であり、それを持ち合わせている意識だ。

このことが分かった時、私は悲観した。私が人間に対する愛だと思っていたものは違っていたから。

 

では、私には人間への愛はあるのだろうか。

 

私は中学の時から人を嫌いになることがなくなった。自分でも何故だろうと考えていた。最初は私が完全に他人へのマイナスの関心が無くなったのかと思っていた。だが実際はその真逆だった。

私は他人に関心を持ち、愛していた。人が起こす行動も、人の顔も髪も身体も着る服も、人が話す言葉も、その元となる性格も。私は人間の全てが愛おしかった。

私は全ての人間が好きだ。

故に私は人間の愚かさも、素晴らしさも、良さも悪しき所もありのまま受け入れる。それら全ては人間を形作るものであり、人間の良さだから。

 

しかし、私は人を嫌いになることがなくなったと同時に、積極的に会話をしようとしなくなった。交友関係を築けない、陰キャ誕生の瞬間だ。

私は怖くなった。人との関わりを続けることが、その人の価値観を変えてしまうことに。私の言葉や価値観が、その人の意識にまで大きく影響する。

そう考えると私は人に関心を持たれることも、人と会話することも恐ろしくなった。だから私は人と関わりつつも、興味や関心を持たれないよう接していた。共感をしつつも、その言葉の先を言わないことで他人という関係性を無意識に維持しようとしていた。

こうして陰キャが極まっていく。

これが私が交友関係を築けない理由であり、恋愛できない理由でもある。

恋愛は関わりや繋がりを超えた結びつきの人間関係で必然的に関わりが深くなる。そして恋愛関係の先には運命共同体としての生活がある。

 

私は恐れている。特定の人と密接に関わることでその人の人生すら変えてしまうことに。

それは歪ませると言っていい。

私には恋愛は尊いものだが、恋愛は互いに人生を歪ませ合うものにも見えてしまう。

私は恋愛をすることを恐れて、人と深く関わることを恐れて常に逃げている臆病者だ。

今も私は無意識にそれを行っている。

 

私は他人の意識を変える自分を許す必要がある。自分が許せないが故に人と関わることから逃げている。その自分を完全に許し認める事で、初めて私は人と深く関わる事ができるだろう。

今の私は自分を少しづつ許せるようになった。それは今の自分を理解し、認める事ができるようになったからだ。

だが私は未だにいつも責任を感じる。自分の行動や言葉が他人に影響することに。私の価値観は今まで生きていた中での経験値であり、絶対的な正しさはない。私の言葉は偏見と同義だ。

また偏見は一つの正しさでもある。私は生きている中で得た価値観や偏見を否定しない。それを否定することは、自分の存在を否定するのと同じだ。私は私を「一つの正しさを持つ人間」として生きる。

 

人間は主観しか判断できない。

人は必ず意識というフィルターを通して現実を見る。

言葉の解釈も個人の意見も知識や記憶、経験からできた価値観が依存する。

人間に意識が存在する限り、人間は主観でしか物事を捉えることができない。

だからこそ人間は絶対的な正しさを持ち合わせていない。

故に人間は共同体となり、善を求めて生き続ける。

 

 

 

そして私は今の私を赤裸々に書き遺す。

今の私を完全に許す時の為に。偏見まみれの、一つの正しさでできた私という物語を遺す為に。

 

次は自分の最も尊敬している方の小説について書きます。

暇があれば見てください。

 

 

 

 

 

始まり

2020年3月30日 開始

2021年3月29日 終了

 

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。このブログを初めて見る方は初めまして。私を知っている方は久しぶり。今このブログを書いている私は、19 歳のごく普通の大学生だ。高校生から現役で大学に進学し、平凡な毎日を過ごしている。そんな私がブログを始めたいと思うようになった。最初のブログには、私がブログを始めるという奇行に至った理由について話す。

 ここでもし私のことを知っている方がこのブログを見たら聞いてほしいことがある。それは、「この文章を書いている私は、今まで知っている私では無い」ことだ。今まで知っている私の姿は、私を見る、話すことで分かり、その情報をもとにイメージしたものの体験量でしかない。自分で言うのもあれだけど、私はこの一年間で大きく価値観が変わったと感じている。だからこのブログを見るときは、私を今までとは別人のような感覚で見てほしい。

 私がブログを始めようと思った理由は、決して承認欲求や強い自己顕示欲ではない。私にはそのような欲が無い。私はまだ19歳で、私の価値基準や性格は19年間生きた中での経験量でしかない。私は人生において今の価値基準や性格は不完全であり、今の私をいいとは思わない。しかし私は今の自分を後悔することは無いし否定することもない。何故なら19年間生きた中での経験量がこの文章を書いているからだ。それにいいも悪いもない。生きる過程でこれから私は、変動する社会の中で物事を選択し、知識を得て、他人を知り、考えることでまた新たな価値基準や性格となる。未来の私の価値基準や性格は必ず変わる。それは成長といえるだろう。成長とは絶え間なく未来へ進んでいく過程なのだ。

今の自分の「俺今こんなこと考えているんだぜ!すごいだろ!」と誇る為にブログを書くつもりは毛頭無い。

 私がブログを始めようと思ったきっかけは「意識は何の為に存在するのか」の答えに一致していた。

 感情は何の為に存在するのか。そしてその感情や感覚を感じることができる意識は、何の為にあるのか。こんな事を私は高校生の頃から考えてきた。日々の生活の中で人間は怒ったり、泣いたり、笑ったり、喜んだり、悲しんだりする。そして我々は五感で情報を認識し感じとる。この感じとることができる意識は何の為に生まれたのか。そんなことを考えるのが私の「ブログを始めるという奇行に至った理由」の発端で、意識は何の為に生まれたのかを考えるきっかけとなった。この疑問は生物の進化において備わる機能が関係していた。

 クジラは哺乳類だが水中で生息している特殊な生物で、祖先は四足歩行のオオカミやシカに似た動物だった。陸上生活に適した骨格を持っていて、現代のクジラにも胎児のごく初期に、一対の後肢の塊が出来るが、やがて消失する。陸上の外敵から身を守る為に水の中で暮らすようになり、脚で体を支える必要が無くなったからだ。前脚は泳ぐために役立つ胸ビレへと変わった。骨格を見ると、胸ビレの中にも私たちの手と同じように5本の指がある。

 そして、クジラの祖先にあった嗅覚や味覚が、クジラになる過程を経ていくことで弱くなり、喪失する。クジラの鼻は頭のてっぺんにあり、口に入れるものが食べられるかどうか、臭いで判断できない。クジラにとって嗅覚で腐敗物や敵を避ける必要性は全く無い環境になっていったからだ。このようにクジラは進化により新たな機能を獲得するのと同時に、不必要な機能を失っていった。しかし、それは生存するために必要だった。「進化」という言葉は、優位な方向に変わっていくというニュアンスが誤って存在する。これは人間の進化もクジラと同じような「進化」の事象がある。

 それは人間の肌色だ。人類には白色、黒色、褐色、黄色など様々な肌色がある。その肌色の違いは地球の緯度と関係がある。肌が黒色の人ほど地球の赤道に近く、緯度が高い所にいる人類ほど肌が白い。肌色の違いは、表皮にあるメラニン色素の量の違いなからなる。メラニン色素が多い人ほど肌色が黒くなり、少ない人ほど肌色は白くなる。日本人が属するモンゴロイドはその中間だ。赤道に近い地域は暑く太陽光が強烈な環境であり、特に紫外線は人類にはとても脅威的な存在だった。紫外線は人間に有害な太陽光だ。この環境に対して黒色の皮膚は皮膚を防御するための最適解だった。メラニン色素で表皮を覆うことで過多の紫外線を防ぎやすくすることで生存することを選択した。それがアフリカ大陸で生まれた人類の祖先である。白人の持つ特徴的な肌色は、赤道付近の日光の量より格段に少ない高緯度地域で生存するためだった。紫外線を吸収することによって得られる骨の発育に必要なビタミンDを効率的に摂取するためには、必要な太陽光を吸収しやすくする白い肌が必要だった。だから黒い肌の機能を捨て、白い肌に変わっていった。

 他の例もある。鳥肌は、体温が下がると毛根が引っ張られ毛が逆立って動く現象だ。体毛の長い動物は毛を逆立たせて断熱効果を高める。人類の祖先であるサルはこのように暖をとる。しかし我々人類は衣服を着るという社会の中でノーマライズ化された習慣が、毛を不必要とした。これも進化の一例である。
 話を肌色に戻す。肌の色の変化は、全て生存するために必要な機能であるが為に起こった。

今社会で起こっている肌色差別はメラニン色素量の違いによって起こる偏見の応酬なのだ。

 そしてその差別的な感情を持つことができる意識も、生存に必要であるが為に人類の脳内に進化によって備わった機能である。人間を形作る全ては、様々な環境下で必要に応じて突然変異によって獲得したその為だけに適応した継ぎ接ぎの機能だ。進化は遺伝子の取捨選択であり、その場その場で選択された遺伝子の集合体となる。

かつて人類か人類の祖先には感覚や感情が必要だった。それをを感じることが出来る意識が必要だった。意識がどのような環境下で生まれたかは私には想像も断定もできない。私はそれを想像するための知識を今は持っていない。

 

 意識は、人類か人類の祖先が生存することを選択したが為に進化し脳が作り獲得した機能なのだ。

この考えに至った時、進化によって生まれた意識は何の為に存在するのかを考えるようになった。

 この後の文章は気が向いたら作る。

 

 

 

 

 話の続きになるが、生物の進化によって得られた意識は生存することにおいて必要で、脳が作り出した機能だと私は考えた。五感を感じ取る器官は身体中にあるが、感じ取った情報を感じ取る器官は脳である。人間は環境に適応する為に、器官を生み、必要な情報を感じとる事で意識を形作っていった。現実というのは、様々な感覚器が感じたものを一つの世界として認識しできている。

 

意識に関して有名な実験がある。ベンジャミンリベットの実験だ。その実験は、人間が指を動かすという意志決定をした時と脳がその意志決定をした行動を準備する時の時間差を測定するものだ。

人間の普通の感覚だと、意志決定の後に脳が準備段階になると思うだろう。結果はその反対だった。脳が準備段階に入ったおよそ0.3秒後に、意志決定が起こっていた。

つまり、既に脳は人間が意志決定する前から動かすことを決定していて、それを自ら実行していると思っているということだ。

人間の意識は自由に物事を決めることができる。しかしそれは、自由に決める前から既に脳が動いていて、あたかも自分が決めたように思っているのだ。

人間は幻覚を起こす事がある。これらは全て、脳の機能障害によって起こるものだ。幻聴・幻視・幻触などは、脳が情報を処理する過程で異常が生じる事で発生する。意識は脳から作られている。

様々な感覚器から得た情報を脳内で処理し、その情報を一つの現実として表す。

これが意識の役割だ。

 

では意識は何の為に存在するのだろうか。

 

それは人間が生きている中で得られたものを記憶とし、それを物語る為だ。

人間は自分自身を残そうとする。それは子孫であり、事象であり、言葉である。子孫には自分自身の遺伝情報が引き継がれ、育てることによって自分自身の記憶を子孫に残す。物事を起こすことによって他人に関心を持たせる。言葉を紡ぎ、発することによって他人に影響を与えることができる。人間は自分自身という物語を紡ぐ事で、他人の意識に何かを残す為に生きている。

人間はいつか死ぬ。それは今の所避けられない。しかし死を恐れる事は必要ない。人間は人生という一つの物語になれる。だから私は語り、書すことによって私の物語がより多くの人間の意識に残るようになりたい。他人に認めて貰う、今の自分を示す。そんなものではない。私は自分の為だけに、自分自身を遺す為だけに物語を描く。

 

 

私はあなたの意識に宿りたい。

それが私の物語。

私は私という物語を描き続ける。

 

これが私がブログを始めるという奇行に至った理由だ。

 

 

 

これからは自分が思ったことや自分の価値観について書いていきます。

暇があれば見てくれると嬉しいです。