人と関わることは難しい。
2021年4月09日 開始
2021年4月15日 終了
恋愛は難しい。交友関係を築くことも難しい。
私は恋愛することも、深い交友関係を築くことも苦手だ。
私は生徒の時に好きだった人が何人かいた。だけど私がその人に好きだと直接伝えることはなかった。
私の好きってなんだろう。というのを大学生になってから思っていた。
そして私は友達だと判断できる人も少ない。遊びに誘われる事も殆どない。自ら進んで会話ができない。故に交友関係を築けない。陰キャ。
大学生活は最初の方は結構暇だったから、暇さえあればいつも自分に自分のことを問いかけていた。
これから話すのは私が自己分析して得られた私の他人に対する価値観だ。
最初にも言ったが、私には好きな人が何人かいた。名前は個人情報なので言えないが、正直にいうと男女数名。全て同級生だ。
あなたバイセクシャルですね!とか2人以上いたの!?きも!と言われても否定も反論もはできない。だって好きだったから。
どの方々も気になり始めたのは中学生の時からだった。私は四年以上その方々が好きだった。今は普通。
しかし私はその事を本人にもその周りの人にも一切伝えなかったし、本人に悟られるような事もしなかった。
それは今の日本社会の人間に関する価値観が私の価値観に直接影響している訳ではない。もし私が好きな人が関わっていく中で複数人ではなく一人が好きだったとしても好きだと伝えることは絶対になかった。
私は他に好きなことをを伝えない理由があった。
それは根本的に私が好きだったものが違っていたから。
私はその方々自体が好きではなく、その方々が成長する過程が好きだった。
正確に言うと人間が他人と関わる、環境が変化することで変わっていく姿を観察する事が好きだった。
私は傍観していた。その方々が他人と関わる姿を。人間関係の変化を。成長することで変わっていく顔の表情の豊かさを。話し方を。価値観の変化を。その方々が成長して得られた全てがとてもとてもとても愛おしかった。
会話することによって得られる信頼、友人関係、異性との関係。それらは成長と共に変わっていく。そしてその背景にあるその人自身の価値観を分析することでその人を理解できる。
それが私が好きだったものだ。
今まで好きだったものは人間に対する直接的な愛ではなく、人間の成長であり、価値観であり、それを持ち合わせている意識だ。
このことが分かった時、私は悲観した。私が人間に対する愛だと思っていたものは違っていたから。
では、私には人間への愛はあるのだろうか。
私は中学の時から人を嫌いになることがなくなった。自分でも何故だろうと考えていた。最初は私が完全に他人へのマイナスの関心が無くなったのかと思っていた。だが実際はその真逆だった。
私は他人に関心を持ち、愛していた。人が起こす行動も、人の顔も髪も身体も着る服も、人が話す言葉も、その元となる性格も。私は人間の全てが愛おしかった。
私は全ての人間が好きだ。
故に私は人間の愚かさも、素晴らしさも、良さも悪しき所もありのまま受け入れる。それら全ては人間を形作るものであり、人間の良さだから。
しかし、私は人を嫌いになることがなくなったと同時に、積極的に会話をしようとしなくなった。交友関係を築けない、陰キャ誕生の瞬間だ。
私は怖くなった。人との関わりを続けることが、その人の価値観を変えてしまうことに。私の言葉や価値観が、その人の意識にまで大きく影響する。
そう考えると私は人に関心を持たれることも、人と会話することも恐ろしくなった。だから私は人と関わりつつも、興味や関心を持たれないよう接していた。共感をしつつも、その言葉の先を言わないことで他人という関係性を無意識に維持しようとしていた。
こうして陰キャが極まっていく。
これが私が交友関係を築けない理由であり、恋愛できない理由でもある。
恋愛は関わりや繋がりを超えた結びつきの人間関係で必然的に関わりが深くなる。そして恋愛関係の先には運命共同体としての生活がある。
私は恐れている。特定の人と密接に関わることでその人の人生すら変えてしまうことに。
それは歪ませると言っていい。
私には恋愛は尊いものだが、恋愛は互いに人生を歪ませ合うものにも見えてしまう。
私は恋愛をすることを恐れて、人と深く関わることを恐れて常に逃げている臆病者だ。
今も私は無意識にそれを行っている。
私は他人の意識を変える自分を許す必要がある。自分が許せないが故に人と関わることから逃げている。その自分を完全に許し認める事で、初めて私は人と深く関わる事ができるだろう。
今の私は自分を少しづつ許せるようになった。それは今の自分を理解し、認める事ができるようになったからだ。
だが私は未だにいつも責任を感じる。自分の行動や言葉が他人に影響することに。私の価値観は今まで生きていた中での経験値であり、絶対的な正しさはない。私の言葉は偏見と同義だ。
また偏見は一つの正しさでもある。私は生きている中で得た価値観や偏見を否定しない。それを否定することは、自分の存在を否定するのと同じだ。私は私を「一つの正しさを持つ人間」として生きる。
人間は主観しか判断できない。
人は必ず意識というフィルターを通して現実を見る。
言葉の解釈も個人の意見も知識や記憶、経験からできた価値観が依存する。
人間に意識が存在する限り、人間は主観でしか物事を捉えることができない。
だからこそ人間は絶対的な正しさを持ち合わせていない。
故に人間は共同体となり、善を求めて生き続ける。
そして私は今の私を赤裸々に書き遺す。
今の私を完全に許す時の為に。偏見まみれの、一つの正しさでできた私という物語を遺す為に。
次は自分の最も尊敬している方の小説について書きます。
暇があれば見てください。